罪はもはや存在しないと宣言される時はますます近づいた

マリア・ディバインマースィー

罪はもはや存在しないと宣言される時はますます近づいた
2014年4月24日 木曜日 16:45

わが親愛なる最愛の娘よ、人間の罪は重要でもないし、わが眼において背くことにはならないと、わが教会によって見なされるその時は近づいた

罪とは、弱さや欠点と私によって見なされる何かではない。罪は、これらの二つの特性によるものだが、サタンの存在ゆえに生じるのだ。わが教会は間もなく、わが信徒を誤って導き、彼らをなだめて、罪とは単に、神の嘉(よみ)する道に神の子供たちをとどまらせるためのシンボルとして使われる一つの比喩にすぎないのだという虚偽を、受け入れさせるだろう。彼らは言う―罪が、あなたを他人(ひと)から離れていると感じさせるべきではないと。実際に罪とは―彼らは言うだろう―重要なものではない、なぜなら神は赦す神であるからだ。然り、私は赦すものであり、その罪びとによって一たび痛悔が示され、再びその罪を繰り返すことになるあらゆる誘惑を避ける努力がなされるなら、私はすべての罪を赦す。あなたたちがその罪によって生活しながら、私に罪の赦しを願うことはできないのだ。殺人を犯す殺人者は、殺人を続け、その犯罪を止めるつもりがない間は、私に赦しを乞うことはできない。先ず最初に自分が罪を犯しているということを受け入れないとするなら、罪から救われるよう私に願うことが何になるだろう。

罪は弱さから犯され、真に痛悔する罪びとを私は赦す。罪びとがもはや自らの罪を認めないならば、罪は霊魂に根付いてしまう。もはや罪は存在しないと宣言されるその時は近づいている。その時が到来したなら、大いなる解放と祝いがあるだろう、なぜなら、かつては私の眼に罪と思われていたものがもはや罪とは見なされないからである。

罪は自然のこと、あなたたち皆が受け入れるべきものと見なされるだろう。あなたたちは、私がそうするように、単に罪人を愛するように言われるのではない。そうではない。罪が存在しないということを受け入れるようあなたたちは言われるのだ。すべての事はわが神性への最終的裏切りに通じ、その時、永遠の父なる神への直接的挑戦によって自らの偉大さを宣言するに至るまで、世間はそれ自体を、その才能を、その知性を偶像化し続けるのだ。

おお、どれほど多くの者たちが誤り、絶望、悪事へと導かれてゆくことだろう。わが教会は、わが聖なる名によって異端を宣言するのに利用されるだろう。それらの誤って導かれた者たちは教会を完全に変えてしまい、その変化の一つとして私、イエズス・キリストによって導かれたものはない。その忌まわしきことに聖霊は働いてはおらず、わが教会の教えに忠実である者たちには、大きな混乱、大きな悲しみや無力感があるだろう。伝統的な教えはもはや許されないだろう。そうして、聖なるものが崩壊したとき、いとわしき者がわが教会に座を占める時が熟すのだ

あなたたちのイエズス

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